中学生の頃に、母から習ったカレーを作った。
母に「男でもこれくらいは作れないと」と言われて、無理矢理習わされたカレーだ。
正直言って、それ以来作ったのは数える程。高校のキャンプとか、大学のサークルとか。
だが、そういう記憶は案外残っているもので、市販のカレールーの箱の裏に書かれているレシピを頼りに野菜を切り、炒めて、水を入れて指定の時間煮込んで出来上がりだ。
味見の度に切れた口の中がピリッと痛み、下津浦の顔が浮かぶ。それが腹立たしくて、カレーの味にも優しさを求めてしまった。出来上がりに物足りなさを感じて、ネットで検索し放置してあった頂き物の蜂蜜とチョコレートを放り込んだ。
「うん。菜那美にも食わせてやりたいくらいには美味い・・・と思う」
自己満足の塊のようなカレーだったが、これで良し。叶多の帰宅予定時間に合わせて炊飯器のタイマーをセットし、やっと気分が落ち着いた。
ソファーに寝転がって、やっとスマホを開いてみようという気になった。ずっと、メッセージの新着の通知音や着信音が煩わしかったのだ。
メッセージの数はこれまで見たこともないくらいの数だ。着信も20件を超えている。部長や中谷さんはもちろんの事、北野さんや若尾さん、城島さん、張本さんは3回も。
「誰に電話するかな?」
考える事もなく、俺は張本さんを選んだ。早く独立して俺を拾ってもらわなければならないからな。張本さんは2コールで電話に出てくれた。
「お疲れさまです」
『バカ瀬。やっと電話が通じたな!』
「バカは酷いな」
『あははっ。中谷に聞いたぞ。あれから派手にやったらしいな』
「派手にやったのは下津浦ですよ。俺は被害者です。指一本出してませんからね。言っておきますけど、どっちかというと辞めるべきはアイツですから」
『そのとおりだ!だがアイツはお坊ちゃまだからな』
「お坊ちゃまですからね」
張本さんの『お坊ちゃんだからな』と俺の「お坊ちゃまですからね」がほぼ同時で、しかも丸被りしていて、俺たちは一頻り笑った。社内の意見はほぼこれだと思うと安心してしまう。
「今、外ですか?」
外回りのついでに、一服しているのだろう。
『ああ、そうだ。お前、今から出て来られるか?』
「ええ、いいですよ。どこへ行けばいいですか?」
『今から地図を送るから、来いよ』
「はい」
早速スマホに地図が送られてきた。それを確認して俺は立ち上がった。
張本さんに指定された場所は銀座。
一口に"銀座"と言っても賑わっている三越の辺りからは離れたオフィスビルが立ち並ぶエリアだ。張本さんが指定したのは、その中の8階建てのビルの7階だった。
目標のビルはすぐに見つかった。新しいビルではない。築30年というところか。白いタイル張りの壁面は、古さを感じさせない。大きな通り沿いにあり、人通りも多く、通りに面した側はガラス張りで日当たりも良さそうだ。
1階は喫茶店、2階はネイルサロン、3階は不動産屋、といった具合にワンフロアごとに1社が入居しているビルの7階だけが空いているようで、そこだけが会社や店名の表示がない。
もしかしたら、ここが張本さんの新たな根城なのだろうか。喫茶店の奥にあるエレベーターで7階を指定して、軽い浮遊感を期待と共に楽しんだ。
張本さんの言っていた「独立」がすでにここで形になっているのだろうか、と考えると俺の気持ちまでも弾んでくる。
チンと音が鳴り、エレベーターが開いた。目の前の金属製のドアは大きく開け放たれていて、ドアストッパーで止めてあった。
「張本さーん!永瀬です!」
「おーっ!来たか!入れ!」
「はい」
「迷わなかったか?」
「ええ、すぐにわかりました」
「そうか」
中に入ると、白い壁。白い縦型のブラインド越しの陽光を背にして張本さんが立っていた。張本さんはジャケットを脱ぎ、シャツを腕捲りしてダンボール箱を抱えている。
「お前な!早過ぎるよ!」
「えっ?普通に電車で来ましたけど?」
「辞めるの早過ぎって言ってんの!俺が辞めてからで良かったのに」
「ああ、そういう事ですか。バカ息子に殴られたんですよ?俺」
俺は口元に貼ったガーゼを指さした。
「あははっ。どうせ大したことはないんだろう?」
「大怪我ですよ。全治一週間。ところでここは何ですか?」
ドアに会社名の表記はないが、フロアはすでにオフィスの体を成していた。
広いとは言えないが、5,6人の社員なら十分な広さだ。中古かレンタルの机と椅子が4人分準備してあり、壁にはロッカーと書類を入れるキャビネットも設置してある。それと簡易キッチンとトイレ。
「凄いな。普通に会社っぽいですよ?」
感心して見回している俺に、張本さんは自慢げに言った。
「そうだろう?外回りのついでに不動産屋を回って、ここに決めたんだ。場所的にどう思う?」
「うん。いいと思いますよ。駅も近いし、人通りも多い。でも家賃は高いんじゃないですか?」
「まあまあだな。一応住所は"銀座"だが、この辺りは3割くらい安いんだ。最初はレンタルオフィスでもいいかと思ったんだが、一念発起して起業するんだ。ここは思い切ったんだ。どうだ?ちゃんとした会社らしいだろう?」
張本さんは胸を張った。堂々とした笑顔は、長年の海外勤務で培った営業力と現地の人との丁々発止の交渉力への自信に溢れていた。その自信に憧れる。
「ええ。凄いですよ」
ここから新しい一歩が始まると思うと、俺も誇らしい気持ちになる。そんな気持ちを寸断するかのように、張本さんがダンボール箱をドンッと机の上に置いた。
「お前、辞めるの早過ぎだぞ」
「すみません。でも、張本さんがバイトで食い繋げとおっしゃったんで、張本さんも近い内に辞めるんだろうなと考えたんですよ。ここが本格開業するまでは、俺は失業保険をもらいますから。大丈夫です」
張本さんは簡易キッチンの上に置いてあった缶コーヒーを2本持ってきて、1本を俺にくれた。
「飲め」
「ありがとうございます。社長」
「お前、気が早過ぎ」
「バカ息子はいませんよね?社長」
「バーカ!」
張本さんは軽く俺の頭を叩いた。
「痛ってえ!俺、怪我人なんですから、優しくしてくださいよ」
張本さんは「急に重傷患者になるな」と言うと、缶のプルトップを開けた。缶は冷えていない。常温だ。
「冷蔵庫、買わないとな。感が良いな、お前。実は俺も3月一杯で辞めるつもりだったんだ。4月半ばには開業の予定だ。ここが気に入ったんで、早めに入居を決めた。他所に取られる前ね」
「へえ!張本さんの独立までがバイトで食い繋げるくらいの期間だ、っていうのは間違いなかったですね」
張本さんの友人のデザイナーの大磯さんは、起業の為の資金調達にクラウドファンディングを利用し、すでに目標額に達したそうだ。彼は来月から、ここで仕事を始める。
「そういう事なら、開業の手伝いをしますよ」
「そうか?暇なら頼むよ」
「任せてください」
「経理に明るいお前がいれば安心だよ」
張本さんは、来月初めに『下津浦物産』に退社を報告して、引継ぎしながら有休を消化するという。
「ところで、明鷹とは話したのか?」
机に置いた缶がカンッと軽い音がして、張本さんの缶が空になったのがわかった。
「話してないですよ」
「俺らはお前が病院に行っている間に、部長たちが示し合わせてさ。総務部以外は全員、追い出されたんだ」
「そうだったんですね。ところで、張本さんは下津浦がマンションにオトコを住まわせてるの、ご存じでしたか?」
張本さんはニヤニヤしている。
「まあ、なんとなく、な」
「さすが。下津浦のバカは、それを俺が社長にチクったと思ってるんですよね。俺じゃねえっつーの」
俺がそれをやれば、下津浦も俺の性癖をバラすに違いない。そうなれば俺は会社に居辛くなる。その点、俺と下津浦は"お互いさま"だったわけだ。
「成程ね。それが社長の耳に入って、お前が犯人だと勘違いしたってわけだな」
「でしょうね。鎌倉の江原寿美子の息子の件はオマケじゃないんですか?」
「どうだろうな」
「まあ、どうでもいいんですけど。それより、俺の性癖とか気になりませんか?」
「ならないよ」
「じゃあ、お願いします。仕事はちゃんとやりますんで」
「OK」
張本さんとガッシリ握手した。張本さんは会社の営業車で出たついでに、友人の荷物を少しずつここに運んでいるのだそうだ。今月一杯、とはいえ俺も有休が残っている。それを差し引くと、実質出社するのは10日程度だった。
叶多が帰ったきた。コンビニで買ったサラダをお土産に。
叶多はビールを開けたが、俺はウーロン茶で我慢した。口の中の傷に響きそうだったから。
「カレー、美味しいよ」
叶多は俺のカレーを食べて目を細めた。
「うん、大好き」
「そうか?自信作だ」
「じゃあ、また作ってよ」
「任せろ。来月からは暇人だからな。俺は料理男子を目指す」
冗談だったが冗談では済まなそうだ。2人分なら本格的に自炊した方が経済的だからな。
「弁当、持っていくか?」
「あははっ。うん、頑張って」
「健太郎とも菜那美とも、しばらくの間はおさらばだ」
「嫌だ、行くーっ!」
赤くなった頬を膨らませる叶多が可愛らしくて、愛おしくて、この幸せな時を手放したくないと思う。
「ぬいぐるみが増えるだけじゃないか」
「宇宙人は飽きたの!」
毎朝、一瞬だけ彼を見るのが楽しみだった。会話もなく、互いが"ただの通りすがりの人"だった俺たち。
いつの間にか共に暮らしているが、この生活はいつまで続くのだろうか。
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